――作家になりたい。
寝入りばなだったか、夜明け前だったかはよく覚えていない。
うすぼんやりとした意識が切れる頃に拙者はつぶやいた。
完全に覚めてから、拙者は泣いていた。
なぜだろう。
前の晩にFacebookを久しぶりに開いたからだろうか。
懐かしい地元の悪友たちの消息を見ていたのだ。
皆、結婚し、子供が生まれ、髭を生やし、いい中年になっていた。
カーテン越しの午前の薄日が、20代で時が止まったかのようなセンスの部屋を照らしている。
外は暖かそうだった。
三鷹へ行こう。
拙者は中央線快速に乗った。
太宰治の墓参りをしたくなった。
快速を降り、駅前へ出ると、白いタイル張りのコンコースが眩しかった。
街は近代化されていて、かつての文豪たちの隠れ里の雰囲気はない。
ジブリ美術館ができてからは家族連れや外国人観光客で賑わっているようだ。
アニメの絵が描かれた黄色いバスに列が出来ていた。
風が吹き抜ける玉川上水を歩く。
彼はここで愛人と互いを紐で結びあって沈んだ。
冬場はおそろしく渇水していて、とても入水自殺が出来る場所とは思えないが、
桜桃忌の6月には青黒い水が濁濁と流れているのだろう。
団子を頬張りながら、のんびりと歩いて、彼が眠る寺を目指した。
平日だけあり、境内は誰もいない。
お堂に参拝してから裏手の墓へゆく。
太宰治はかの文豪・森鴎外と同じ寺に埋葬されているのは有名な話だ。
森家の立派な墓所と、一回り小さい津島家(太宰の姓)のそこには鮮やかな花と酒。
太宰の墓の前に誰かがいた。
頭のてっぺんが少し薄くなった壮年男性である。
青いジャンパーが灰色の墓地の中で浮いている。
「こんにちは」
挨拶をした。
振り返った中年男性は、人懐こい笑顔を向けてきた。
「こんちは。今日は暖かいねェ」
ほとんど標準語だが、何処かの訛りが混ざっていた。
拙者も妙に心の垣根がほぐれて、
「春みたいですね」と言った。
春。
自分で言って、はっとなった。
東京で目的も曖昧なまま暮らしていると、いつか故郷は遠くなる。
季節を告げる自然の営みも、いつか見た夢も、友も。
春ということばを忘れるほどに。
自然と都会の狭間の街には、たしかにそれが生きていた。
「おれ、物書きなんだよ」
壮年男性は油の染みた黒い手でビールを供えながら言った。
「僕もです」
つられて拙者も言った。
2人は笑った。
職を失って、昼間に出歩くようになって気づくこともある。
帰り電車の時間が近づいていた。
ラーメン屋のバイトがあるのだ。
女装ウィッグと化粧品を買うためのバイトだ。
「明日からまた冷えるってよ」
男性のことばは暖かかった。
春のように。